働くことを考える

企画している催し物や生業のほうに就職活動中の学生さんが来られるようになり、自分自身が就職活動中だった頃、働くことを考えすぎて宗教を始めそうになったことを思い出している。


世界が平和になるためにはどうすればいいのだろうということを子どもの頃から考えていた。親の影響か何かで何故か戦争を身近に感じていた節があり、人が人を殺さないで済む方法について考えていた。私がちゃんと話せば悪い人はみんないい人になるなど思っていた。

一方で、人を憎んだり気持ち悪がったり集団に適合しようとしなかったり人を見下す性質のある自分に辟易もしていた。おまけに音痴だし無知。寒いと口びるが紫になるのもイヤ。


家族のことすら大切にできない自分に何ができるのかと真剣に考えたのが就職活動の時期だった。

国際的な支援に熱心だと信じていたわたしのいる国の政府や企業の送るお金の先でシンプルでない事態が起こっていることを知ったのも、私の買うもの、売るものの先でめちゃくちゃなことが起こっていることもこのときに知った。日本の中にスラム街があることもぜんぶ大学に入ってから知った。


また、それらに関わる人の中に根っからの悪人がいるわけでもなさそうなことも何となく知った。

どうすればいいかだけは知ってるつもりだったのが、誰も何も知らないことを知った。

そんなことがあたまの片隅にありながらの就職活動は方々で嘘ばかり言っていたのでつらかった。


働くということは人に影響を与えるということで、わたしはなるべく人に影響を与えたくないと思った。それも、いいことをしてるつもりで地球のどこかで誰かを殺してたらイチバンいやだと思った。

人を傷つけない無駄なことをして、世の中になるべく影響を与えず、憎まれず生きたいと思った。とりあえず大阪とか行ってみたりした。

でも今はそれは無理だなーと思っている。何も生み出さないことは不可能。誰かの食い扶持になりながら誰かを苦しめないと、生きていけない。生きるのは大変つらい。


生きるのはつらいといえば、ウン、生きるのはつらいけど、例え可哀想だからといって人に殺されていい人がいるとは思わない。存在価値のない人はいないというのが結論になっている。

叱られるべき人は沢山いるし私もそのひとりだけど、沢山の人が言ってきたように、生き物は生きてるだけですごいし色々と何かを生むから、死ぬと何も生まない。


つまり、驚くべきことに人生に目的はないらしい。ご飯は美味しいし人に抱きしめられたら嬉しいしあったかい布団で寝ると気持ちがいい。その逆はつらい。その繰り返しをやっている。これは生きるということのはなしダ。


話を働くことに戻せば、先日、ロマは労働歌を持たないと聞いた。労働という概念がないらしい。労働を労働と思わなくても生きていけたということだ。

昔はなかった概念として、日本にも、結婚や家族、個人のない頃があったと聞く。

その時代の仕組みより良くなろうとしてきた積み重ねての今なのだからそこに戻るのはナンセンスだと思うけれど、ワタシそもそも人間なんだよね、という感覚は、よくわからなくなったときにワタシを救ってくれるもののようだ。


働くということを考えると、どうしても、どう生きるかを考えてしまう。

好きなことを突き詰めようか、1人を愛そうか、自由を愛そうか、旅をしようか、親は悲しませたくないなとか。


何を信じて生きるかを決めようと思うと、そこにはすでにその人の宗教がある。


それだけ、答えがなくて曖昧な正解しかでない作業に立たされるのが、生業を決めるということだと思う。


どうなんだろう、同じ種類のモンモンに悩まされてる人が今いるだろうか。わからないけど、正解のない結論は優秀な政治家や経営者だって簡単にできないエライことだから、悩んで当然なんだ。


将来のこと考えても明日しんじゃうかもしれないから、考えることがイロイロ多くても会いたい人には会って、たまには遊びましょうね、と何もない空間にコトバをぽつねん残して、結びとします。